京都新聞 1999年9月19日「私の京都新聞 評」掲載記事
日本サスティナブル・コミュニティ・センター
事務局長 浅野令子
「うさぎ追いしかの山、こぶな釣しかの川…」
朝刊対向面のシリーズ連載『君の笑顔が見たい』第2部「子供は変ったか」では、最近のこどもの様子を追い続けており、読むたびに世の中の変容の複雑さに、ため息交じりになる。そんな中、芦生の森自然教室(8月23日夕刊『どきどき野あそび』の「魚になる水になる」)や、夕刊のシリーズ『京都いきあたりばったり』で、一心に水と遊ぶこどもの写真(同10日7面)に心救われる。私たちを取り巻く水の豊かさは、何ものにも勝る。大人の作ったマニュアルなしでこどもに徹底的に一日水遊びをさせ、「自分が感じることが最大のポイント」という自然教室のインストラクターの言葉は、自然の中に素直でいられる「自分」が愛おしいという気持ちの大切さを教えてくれる。
『まち・ひと 100年の肖像』では、過ぎ行こうとしているセピア色の二十世紀という時代を切り取り、知られざる史実や忘れ去られた出来事を掘り起こしてくれる。『世界の文学と私たち』、『遊園地学事始め』、『人かたちと交わり』(朝刊「文化」面)等でもそうである。レトロな感覚だけではすまない時代の伝統文化の模索も、京都能楽界の現状(4月28日夕刊「芸能ワイド」面)や歌舞伎を愛する会の20年(7月19日夕刊)で見せてくれる。
しかし、時代は確実に変ろうとしている。『にっぽん診断』(8月13日夕刊経済特集面)で樋口廣太郎氏は、二十一世紀に向けて日本経済を再生していくためには、すばやく自己変革できる企業への変身、新しい日本的雇用と賃金システムの構築、情報通信革命と会計ビッグバンへの対応―をあげている。新聞社もインターネット時代のメディアとして、自己検証と自己変革をすべき時期ではないだろうか。
8月28日夕刊で紹介されているゲームソフト「成長する人面魚・シーマン」は、知識を蓄えながら、肺魚、両生類へと変化、やがては水槽から出ていこうとする。新聞はこんなゲームソフトのようにあらかじめプログラムされているわけではなく、それ自体が一種の「生命体」である。読者からの情報を的確に蓄積し、進化していかなくてはならない。情報発信は双方向性の時代。読者から新聞社に寄せられる情報を、どのように紙面に反映させているのか、そのプロセスを一度『オピニオン・解説』面などで紹介してほしい。読者から新聞社へ寄せられるフィードバックを参考に、時をつかもうとする新聞社の動きを、素直に読者に伝えることも、二十一世紀のメディアの心の有り様の美しさではないだろうか。