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レポート : 報告 2001年7月13日 ネット上での協業、会社運営とは 「Y's STAFF」に学ぶ
掲載日時: 2001-7-13 16:16:00 (94404 アクセス)

2001年7月13日 エコミュニティ研究会 SCCJ公開リポート 

■ テーマ  ネット上での協業、会社運営とは
「Y’s  STAFF」に学ぶ
講師 「Y’s STAFF」代表 田澤 由利

<Y’s STAFF設立までの経緯>
大学ではコンピュータとは無縁だった。ところが、おじからもらったパソコンの、ソフトを入れ替えたら別のことができてしまうところに引き付けられて、コンピュータメーカーに就職を希望した。実家のある奈良にUターン就職という形で、シャープ株式会社のパソコンの企画をする部門に入った。天職だと思い、地元の奈良で仕事をして、育児休暇もいただき、平和に人生を送ろうと思っていた。
しかし、結婚したいと思った相手は生命保険会社の人だった。生命保険は転勤が多く、こういう人と結婚して2、3年おきに全国を転々とするとなると、どうしても定職には就けないだろうと考え、かなり悩んだ。しかし、仕事はやる気さえあればできるのではないか、結婚相手はそんなにはいないだろうという判断から、結婚を決意した。案の定、結婚式2ヶ月前に、仙台への転勤を言い渡された。結局、半年間は仙台と奈良で別居し、その後、仙台にあるシャープの子会社であるコンピュータ販売会社へ出向できた。おかげで何とか仕事は続けられた。
 ところが、妊娠6ヶ月くらいの時に切迫流産で入院し、主人の転勤という状況に陥った。会社には勤めたかったし、仕事をしたかった。シャープという会社も非常に好きだった。この時は夫に付いていくのが大前提だったので、泣く泣く退職という道を選んだ。

会社を辞めた途端、自分は社会から取り残されてしまった。
今から9年くらい前のことだ。長女を妊娠中だったが、何とか仕事がしたかった。地方にいても、お腹が大きくても、子供を生んでも、育てていても、ずっと一生できる仕事というのはないだろうかと考えた。当時はパソコン通信のメールが普及してきたところだから、地方でも書く仕事ならできる。ライターになろうと決意した。編集経験もなく、もうすぐ出産する、東京にも行けないという状況で。今思うと非常に無謀だったと思うが、何とか仕事がしたいという思いが強く、毎日のように、出版社や知り合いに企画書や履歴書を送っていた。すると、新しいパソコン雑誌を出すというある出版社の編集長がライターを探しているのを聞きつけた。「いい企画があれば考えても良い」と言われ、毎日また企画を考え、提出し続けた。すると「これ面白いかもしれないね」と反応があった。その矢先に今度は妊娠9ヶ月の時に、切迫早産で入院せざるを得なくなった。今ここで入院したら、絶対仕事は来ないと思った。病院のベッドの横に電話があったので、編集長に「電話番号が変わります」と言った。入院して3、4日目に編集長から「連載が決まったのでお願いしたい」と直接電話があった。初めて仕事をもらったのが病院のベッドの上だったという、ライターとしては大変なスタートを切った。そして、岡山から名古屋への4回目の転勤。その後次女の出産。赤ん坊が泣く中、自分のホームページを作ったり、多い時で1年に3、4冊の本の出版をした。自分としては一生懸命がんばってやってきた。
 
名古屋には4年ほどいたので、仕事がうまく流れていたが、ある日、主人から北見市へ転勤が決まったと電話があった。北見市とは、北海道のオホーツク海側、網走の左下の方で観光地とは離れている。人口11万人くらいの、オホーツク地方では一番の商業地域だ。今までは名古屋だったので、何とか東京へ出て出版社まで行けたが、北見に行っては仕事も来ないだろう。さすがにライターとしての仕事も終わりかなと思った。
ところが面白いもので、当時インターネットが普及し始めていて、SOHOとか在宅ワークにスポットが当たりだした。つまり「名古屋でライターをしている田澤さん」よりも「北海道の北見で子供が3人いて仕事をしている田澤さん」の方が、商品価値が高かった。雑誌やテレビ、新聞の取材、講演依頼が増えてきた。地方で子どもがいてもインターネットを使って仕事をしているということがもてはやされた時期だった。
結婚、出産、夫の転勤、親の介護などいろいろな理由で会社に勤めることができなかった女性がたくさんいる中で、私のような記事が出ると、「そんなに北にいて子どもが3人いてもできるのなら、東京にいて子どもが2人の私にだってできるじゃないか」と夢を与えてしまった。「どうしたら田澤さんみたいに仕事が得られるのですか」と質問がたくさん舞い込んできて、その答えに詰まってしまった。何とかその答えを出したかった。どうにかして、SOHOでも、在宅ワークでも、電脳内職と言われる仕事ではなくて、やりがいがあってお金が稼げるバックスタイルはできないのかと考え始めた。
 
<Y’s STAFF設立>
どうしたらSOHOでも仕事ができるのかと考えた時、まず、実際の社会を考えてみた。自分で営業も商売も全部できる自営業。大きな会社に属して、複数の人間で協力し合いながら、仕事ができる会社員。そして、自分の好きな時間を使って、好きな働き方ができる、かなり自由度の高い、でも多分収入は低くなるであろうアルバイターやフリーターなどである。
ところが、ネット上では、デザインやプログラミングができる、またはコネがあるなど自分で全てができる自営業に当たるプロフェッショナルSOHOと名付けられた人たちがいる。そして、今回のSOHOブームでアルバイトとして在宅ワークをしたいと思う人たちがいる。
しかし、何らかの理由により会社を辞めた人たち、例えば、商品開発の企画部で活躍していたAさんがネット上で仕事をしようと思っても、企画は1人でプロフェッショナルにできる仕事ではないのである。といって、データ入力やテープライターなどでは自分の持っているノウハウや技術が活かせない。つまりAさんの働く部分がないのがネット上の現状である。そこでネット上でも、みんなが力を合わせて、1つの仕事をやっていく会社のようなものがあれば、やりがいある仕事が発生するのではないかと考えをまとめたのである。
「チームSOHO」というのは私の造語である。みんなが会社に通って、1つのオフィスで仕事をするのと同じような感覚や意識で、一緒に仕事ができる環境をネット上に作る。このコンセプトをホームページで提案した。しかし、提案するだけでは納得してもらえない。自分でビジネスとして成り立つことを証明しないと意味がない。とにかく形を作って証明するということが大切だと思い、3年前に有限会社を設立した。
 
この「有限会社 ワイズスタッフ」(Y’s STAFF)のYは田澤由利の由利のYと、英語の賢明なという意味のワイズをネット上で能力のある人を活かしたいという意味を込めて付けた。本社は奈良県生駒市。当時は北見に住んでいたが、転勤があっても確実に動かない実家に本社を置いた。資本金は最低限の300万円。売上は最初の半期で1,000万円。1999年度が5,600万円。3月末で締めた2000年度が9,600万円を出すことができた。
 
<Y’s STAFFの現状>
設立当時の社員は私1人で、社宅のサンルームにパソコンを1台置いて始めた。今は社員が4名に増え、契約スタッフも当時は20名弱だったのが50名位になっている。実際には社員ではないのだが、「ネットメンバー」といって、ネット上で社員のような意識をもって働く仲間がいる。9割以上が女性である。基本コンセプトとしては請け負ったすべての業務をネット上でする。ネットワークがオフィスということをみんなで実践したいと考えている。
下請けはしない。できる限り、直接仕事をもらい、要望をしっかり受け取り、フットワーク良く、やり取りする。「安かろう、悪かろう」のSOHOワーカーを作りたくないためにも頑張った結果、取引をいただいている。
 業務内容は、ネットコンテンツの企画、作成。これもタイミングよく、女性のホームページやサイトがここ1、2年流行った。メールマガジン、ニュースの編集。私はライティングが得意だったので、その方面に強くなった。そして、インターネット上でのマーケティングはやっていく上で学んだ。本を書いたりセミナーを開催したり、講演を業務のメインとしている。
 業務形態は、大きくなってくると、すべてをネット上で、また、私1人でやることができなくなり、ローカルなオフィスとの共同運営も必要だとわかってきた。普通の会社で言えば、総務部にあたる北見オフィスをおき、物理的な業務を集中的に行っている。
50人のメンバーへの連絡網はメーリングリスト。そして、「プロジェクト」と呼ばれる仕事単位で、「○○会社のホームページ作成プロジェクト」というようにネット上に会議室を用意している。プロジェクト毎に、ネット上でみんながけんけんごうごう論議しあいながら、仕事をしている。
 ネットワークオフィスでは私が社長をしている。その下のプロジェクト推進部にマネージャーがいて、私が兼任している。その下にいろんなプロジェクトチームがあって、それぞれにチーフを置いていて、実際の作業スタッフがその下にいる。マネージャーから下の固まりを「ユニット」と呼ぶ。そして「ローカルオフィス」と呼ばれる北見オフィスのスタッフがネットメンバーを支える形態を取っている。
 私が兼任しているマネージャーはメンバー50人を見ている。今の50人という数は私がマネージャーをして行く中で、最大の数字である。スタッフを増やすにはマネージャーを増やしてユニットを増やす。このためにはユニットの運営方法を組織化、あるいはシステム化することが必要だ。
 
チームSOHOのメリットは、在庫や社員を抱えないために安全に経営できること。ネット上なのですべてのやりとりが記録される。だから、ちょっとしたミスがトラブルになった時に、ログを見れば一目瞭然である。また、複数の目が入ることで、質の高い仕事ができる。そして、それぞれ住んでいる所も前職も全然違うメンバーを構成することにより、いろんな仕事ができる。普通の会社であれば、とてもそんな組み合わせでは仕事ができない。
 また、個人の仕事ができなかった人たちも、営業をしなくても、仕事を手に入れることができる。孤独感や不安感を感じずに仕事をすることができる。また、急なトラブルでもフォローし合える安心感がある。
そして、地方在住でも参加できる。
それから、経験、実力、自分のライフスタイルに合った働き方を自分で選ぶことができる。
 
デメリットは、人的要素が仕事の全体の質に影響しやすい。ネットで仕事をすることは、とてもナーバスで、不安定なことである。目に見えない相手のことをコントロールするには、適性が必要である。その人の意志を見極めてやっていかないと、絶対に品質にも関わってくるし、全体の和も崩れる。そのために、それだけお金と時間と体力をかけてまでも、人を選んでいる。私自身もネットで協力し合ってやるということが、いかに難しいか、いかに人の素質によるかを体験した。だからこそ、採用することを狭き門にして、人を選んで参加させているのだ。
 
<Y’s STAFF今後の課題>
できる限り会社の実績を作って、コツコツ大きくして行きたい。営業活動を分散し、ローカルオフィスを置いて、遠隔でも雇用できる体制を作っていきたい。そして、ホームページを使った2次的な広報活動。テレビ会議システムやライブカメラの活用。仕事をしない幽霊メンバーの契約解除による人事面の強化。メンバーのメンタル管理。トラブルが起こったときのための相談窓口。福利厚生。愛社精神を培うことなど考えている。
 
このネットオフィスのおかげで、我々は今、一番住みたい所に一緒にみんなが暮らし、やりたい仕事ができて、非常に充実している。まだまだこれからの課題もあるし、とりあえず今のような形で会社を経営し、もっと会社を大きくしていきたいと思う。

<質疑応答>
○2年半ほどで年商1億円近くに膨れ上がるとどのような感じになるのか?
○田澤:昨年度はネットバブルでいろんな所がネットでお金を使おうと思っており、そのお金がうまく流れてきて年商1億円になったに過ぎないと考えている。そういう意味ではそれほど稼いでいるという意識はなく、自分に取れる仕事は精一杯取って、できる仕事は精一杯やったら収入が昇り調子になったというだけだと考えている。
○スタッフとの関係は?
○田澤:スタッフはSOHOワーカー、個人事業主という位置付け。業務形態としては、ネット上で社員のように皆で協力し合ってするという形態を取っている。契約という面で言うと、会社と個人の業務委託契約。仕事が入ってきた時に、個々に請負契約が発生するのではなく、最初に個別契約のことも書いてある1年更新の基本契約をしている。
○スタッフは自分で保険などに入っているのか?
○田澤:収入が多く、ご主人の扶養から抜ける方は保険も自分で掛けている。ただ将来は収入が安定すれば、コアの人たちは遠隔雇用にして、社会保険も掛けていきたいと思う。
○能力差をどう評価し、他の人にわかるようにしているのか?
○田澤:仕事を募集する時に「今度の仕事はメールマガジンの制作。1本発行につき、スタッフひとり当たりは幾らです」と明確に出している基準額がある。その上で、大変良くやってくれた人には、チーフ判断のレポートにより、「調整額」を付けている。ただこれはもっと人が増えてくるとできなくなるので、メンバーの中でのランク分け、メールマガジン゙1本作ると幾らといった価格付けの表を作成中である。
○大きくするのは共同体としてなのか、あるいは企業としてなのか?
○田澤:やってみなければわからないが、とりあえず今一つのユニットをきっちり固めてからもう一つ作る。イメージとしては「事業部制」だ。事業部制になってマネージャーを年俸制だとすると、ワンユニットでの業績によって、マネージャーの給料が変わる。皆が一緒にがんばれば、皆の給料も上がるとなっていけば、共同体でありつつ、ビジネスとして成り立つ可能性はある。
○1年毎にどの事業部に入るかを自分で決められというのは?
○田澤:考えたことがなかったが面白い。普通の事業部だと、奈良に住んでいるから奈良にだが、ネット上だと自分の申請で、全く別のユニットに変わることができる。普通なら退職するしかない時も、ネットならの柔軟性から、新規にやり直しがきく。
○ネット上での、コミュニケーションのノウハウの蓄積は?
○田澤:議論の手法は経験からである。最初のメンバー5人位が培ってきたものを次の人たちに受け継いでいる。新人をどう育てるのかと言うと、新人は仕事として参加するのでなくROM(Read Only Memory)として、希望する職種に読むだけに入り、みんながやっている流れを見て学んだ後、次のプロジェクトに参加する。その中で出来てきたスタイルが会社のノウハウの1つでもある。最初にお金をかけて決めたものではなく経験からできたものである。

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