2001年6月26日 エコミュニティ研究会 SCCJ公開リポート
■ テーマ 環境、経済、社会倫理を評価する
宝酒造の事例から
講師 宝酒造 環境部長 吉田 陽(よしだ あきら)氏
<環境マーケティング>
最近は、環境活動が企業価値に結びつくようになっている。
企業の環境問題と言うと、工場での公害対策が中心で、環境報告でも工場での対策について述べられているものが多い。
環境負荷は、業種によって発生場所が異なっている。エネルギー産業では、工場での環境負荷が高く、電気製品や自動車などは、製造段階よりも排気ガスなど世の中で使われている時の環境負荷が高い。
酒造メーカーでは、消費後の容器や包装が要らなくなった時の環境問題が非常に大きな責任となっている。そのため、酒類メーカーの環境報告書では、消費後の問題についていかに述べられているか、情報公開されているかが重要であると言える。
企業が環境問題の法的責任を果たすことは当然であり、その上にある社会的責任を自主的にどう果たすかが重要である。イメージ戦略は、いい意味で、企業が社会に評価されることにより、さらに環境問題への取り組みを推進できることで、環境広報をする(=うまく社会にコミュニケートする)ことが重要である。
従来、食品メーカーは公害問題で騒がれることが無かったので、利益を社会へ還元する「社会貢献型」の環境活動からスタートしている企業が多数であった。自然保護活動にお金を遣い、グリーンキャンペーンを行っていた。
ところが、自社の環境負荷は低いから社会貢献をやっていたら良いという時代は過ぎ、食品メーカーでは商品の容器保存の問題が環境問題として起こってきた。容器保存問題を念頭に置いた商品開発を行うことが必要であり、現在はISOなどを取り入れて、経営そのものをグリーンプロダクツにするという流れになっている。
<宝酒造における環境活動>
当社はもともと酒造メーカーなので、いいお米と水が無ければ、いいお酒が作れない考えがあり、「自然の恵みを自然に返す」「宝は田から」というスローガンのもとに、商品開発が行われてきた。
具体的な活動として、1979年北海道で豊平川に鮭を戻そうという「カムバックサーモン」運動を市民運動と連携して行った。北海道での社名の認知と拡販を目的として始めた経済活動であったが、結果としてシェアが伸び、市民運動にも日本各地へ、遠くはカナダまで広がりをもたらした。この活動を通し、酒類メーカーにとって、環境問題は重要なテーマであると認識し、昭和60年、「自然との調和を大切に、発酵技術を通じて人間の健康的な暮らしと生き生きとした社会作りに貢献する」という企業理念を決定した。
21世紀になって、この理念に基づき、発酵技術の延長にあるバイオ技術が、環境ホルモンを分析するためのキット作りや遺伝子組み替え作物を検出するビジネスなど、社会問題を解決する分野で活用されている。
社会貢献活動から始まった環境問題への取り組みは、世界標準のISOやゼロエミッションなどの国際的に認められた手法、計数管理で環境負荷を削減していく状況が必要となってきたため、97年7月から「エコチャレンジ21」という社会貢献と環境負荷削減をトータルで取り組む活動をしている。
97年は焼酎への増税が行われ、企業としては経営の苦しい時期であり、環境活動への取り組みに疑問の声もあったが、企業の存在意義は、過去のES(従業員満足)からCS(顧客満足)へと移り、現在SS(社会満足)が加わった。企業はCSとSSのバランスを取りながら、その間にある飲酒問題、環境問題、バリアフリーに一定のコストをかけることで、長期的には持続的な成長活動が行えるとの認識で、環境問題に取り組むべきであると定義した。
企業の環境対策は、社会貢献的な認識だけでは企業の業績に影響されやすく、不況だからと環境対策がおろそかになると、経済に大きなデメリットを及ぼしかねない。そこで、環境活動を企業活動にビルトインし、環境活動で経済を合理化、効率化しようとしたのである。
商品開発は、環境適合性の観点から適性水準(付加価値)を見直し、環境負荷とコスト削減をめざした。
具体例1:ペットボトル焼酎には異素材の「取っ手」が付いていたが、分別工場で取っ手がリサイクルしにくいクレームがきた。取っ手を外すべきかどうかの議論が行われたのだが、取っ手を外してしまうと売れなくなるのではないかという危機感があった。まさに、環境と経済のトレードオフ関係にあったのである。議論の結果、ペットボトルのリサイクルの重要性を考慮して、ペットボトルの形状を持ちやすく変更した上で取っ手を外した。さらに、「エコペット」と名付け、環境に配慮した改良であることを前面に出した広告を行ったところ、売上拡大につながった。「取っ手」を外した分、コスト削減になり、リサイクルもしやすくなった上、利益も上がった。ペットボトルのリサイクルそのものには問題もあるが、環境とコストダウンを両立した例である。
具体例2:お酒の紙パックは内部にアルミ箔が張ってあるので、牛乳パックのようにリサイクルできない。そこで、蒸着という方法が使用されるようになり、一定の工場ではリサイクルができ、燃やした場合でもアルミかすが減るので、環境負荷が減った。しかも、アルミはコストの高い原料であるので、コストダウンになった。
具体例3:本みりんのラベルは、商品名がペットボトルに埋め込まれて、リサイクルできない印刷になっていた。しかも、ビニールを使用していて、剥がしにくい苦情がきたので、紙帯に変えたことで、リサイクルし易くなり、コストもさがった。
従来、「消費者便宜性」「品質保存性」「デザイン優位性」は、環境問題よりも優勢していた。しかし、「リサイクル性」から見直すことによって、環境負荷削減とコストダウンの同時実現を行ったのである。
環境コストには、地球が支払っている外部環境コストと、企業が負担している内部環境コストがある。資源の枯渇、大気汚染、温暖化など環境破壊の進行には、地球がその分の環境コストを払っていると考えられるが、いつまでも払い続けられるわけではない。
企業は天然資源利用税、使い捨て容器税、生産工程で出る廃棄物処理コスト、炭素税の導入といった形で外部環境コストを負担し、リサイクル原料を使った商品開発をして、生産工程ではゼロエミッションを使い、消費後の処理はできるだけ自主回収するシステムを作る必要がある。焼酎メーカーでは、リターナブルシステムと量り売りに取り組んでおり、スーパーやビール業界でも始まっている。
こういった活動を、できるだけ世の中の人々にきっちりと伝えて、当社の活動を支援していただくことで、環境活動へ取り組みやすくなり、同業他社も同様の行動を起こさなければならない流れにつながるのである。
<環境会計>
当社は環境報告書を98年から出しているが、この中で緑字決算を一般に公表している。
地球環境から投資を受けて企業活動を行い、その結果、生じた利益を社会貢献として、自然保護活動などを行い、投資家である地球に還元するものである。
特徴は、地球環境への貢献度の統合指標化で「環境負荷削減緑字」と「社会貢献緑字」で、この2つが緑字決算の骨子である。
「環境負荷削減緑字」の決算手順は、①地球環境への負担を、調達と廃棄の11項目に分類する②これらは単が違うので対97年度比の改善率を算出する③環境問題の重要度で加重平均値を求める④改善率1%=1EOC単位を用いる、である。
環境問題については、科学的データを積み上げてもすべての人が納得する重み付けは難しいので、世の中の人がどう思っているのかという意識で重み付けするパネル法を用い、決定までのプロセスを透明にして、最終的に5段階評定で決定した。この結果、99年度は97年度に比べ25ECOのプラス、「社会貢献緑字」は、マイナス20ECOであった。マイナスの情報も隠さず公表することで、信用あるものとなっているのである。緑字決算のポイントは「総量」で表されていることで、二つの緑字で決算のバランスを取ることができるが、差し引きすることは行わない。
環境会計には米国型と欧州型がある。今、日本で用いられているのは米国型である。米国型は、「金額指標」「環境コストとその企業にとってのリターンを表記」「投資家への説明責任」から発達したものである。欧州型は、緑字決算と全く同じで、「物量指標」「地球環境への負荷の状況を指標化」「社会への説明責任」がある。米国型には、「経済効果単位型」と「環境保全効果単位型」がある。当社は、欧州型の緑字決算と、米国型の内、「環境保全効果単位型」に力を注いでいる。「環境保全効果単位型」では、項目毎の環境コストが算出されるので、企業の環境活動で必要な対策を打つことができるのである。
<環境会計の今後>
経済目的のための環境会計は、企業にとって、何が環境問題なのかを定義づけし、その環境問題への対策費用を全社から洗い出し、集計することである。だが、費用の内の環境コストを識別することは、割合がまちまちで、不確かである。環境コストの把握は、企業が自社の環境活動を経済効率的に行うための指標とはなるが、企業間の環境対策比較のツールにはならないし、企業会計のように外部公表目的では使いようが無い、不確かなものである。環境省はガイドラインを策定したが、何が環境コストなのかについては企業任せの状況である。今後の環境会計は、「フルコスト環境会計」と呼ばれ、地球環境問題を解決するツールとして発展していかなければならないものである。環境負荷と環境対策のコストバランスが取れていない結果、地球がコストを負担して環境破壊が進行している。だから、地球が負担している環境コストをできるだけ企業と社会が負担することが、今必要である。そして、企業が行政と連携して効果的に環境問題に取り組むために、情報公開と、環境会計の公表が必要となってくる。
<企業にとって環境活動の価値>
① 環境効率(資源、エネルギー効率)追求による経済の効率化
② 外部環境コストの内部化を前提としたコスト競争力の強化
③ 「環境」による経営の差別化
④ ユーザー(消費者)の環境指向への対応で商品力強化
2001年5月18日エコミュニティ研究会 一般HP用
■投げ銭システム
講師:松本功。ひつじ書房という小さい出版社を経営している。
著者がいて、読者がいて、その間に出版社・編集者がいるわけで、その立場から投げ銭システムを考えてみた。ひとつの曲がり角にきているので、その辺りを復習する形で進めさせていただく。
どうして投げ銭なのか。かっこつけて言うと、「市民のパトロンシップを作ろう」「情報を評価して、いい物であれば支援し、持続できるようにしよう」「よい情報に対価を」ということである。
対価と言うと、同じ価値の物を交換するみたいになってしまうけれど、そうではなく何らかのお返しができるような仕組みで小さい組織、個人、あるいは市民主体の経済があればいいと思っている。
私自身、出版社として苦悩している。例えば、値段が高い本はコピーした方が安いということでなかなか売れない。つまり、作り手側や著者側に評価が伝わってこない。
そして、情報を作る過程というものに対して心を及ばさなくてもいいのだろうかということを考えた。
小額決済の仕組みに関して、クレジットカード決済になぜ小さい企業が参加できないのだろうかということを何度も聞いてきたが、もともとそういう問題設定があること自体、よく分かっていない気配がある。
以前から日本の中世の芸能に興味があった私は、パッケージ化されていないコンテンツの時代に、大道芸という形で芸能者にお金が舞う仕組みがあったことを思い出した。そして、インターネット上でも同じような仕組みが使えないだろうかと考えた。
投げ銭という言葉のほかに、昔、「今日は木戸を10人分積んで」と言って、一人で10人分を払う木戸銭があった。結果的に劇場や芸人などに出す支援になり、特定の個人にするご祝儀とは少し違った意味合いである。
芸能史の話になるが、辻で講釈をする人、琵琶法師、太平記読みなどがいた。多くの人が本を気軽に持てなかった時代、テキストを持ち運んでいた(学問や思想を伝えていた)のは、もしかしたらこの芸人たちだったかもしれない。学問も辻で講釈をしていたし、米沢藩が辻でいい官学者を見つけて採用していたという話もあるそうだ。
琵琶法師にも色々とパターンがあり、新築の家にお祝いに行ったり、また、宵待ち講(一晩寝ないで先祖の菩提を弔う)をしたりしてお金をもらっていたそうである。
そんな風に、もともとは芸人を活かす仕組み、享受する仕組みがあったわけだ。
デジクリ(デジタルクリエーターズ)で投げ銭システムについて投稿させてもらったら、最初に10人くらいの人が賛同のメールを送ってくれて、賛同人を集めて推進準備委員会を結成した。
1999年6月に飯田橋のシニアワークで第1回シンポジウムを行なった。「市民側でやった電子決済の初めてのシンポジウムではないか」と日経の記者の人が言ってくれた。
同年9月に同じ飯田橋シニアワークで第2回目を開いた。その時はもう少し焦点を絞り、図書館が個々の投げ銭の代わりにテキスト発信者に対して支援する仕組みを汲み取れるかどうかのシステムについてのシンポジウムとした。
実際にどういう決済手段をやってきたかと言うと、まず初めにサン電子(名古屋)が1999年末から2000年6月の半年間、クレジット代行の決済の仕組みを使って投げ銭を実施した。
それから、電子財布の一種のミリセントという仕組み(もともとはDELLの人が考えたらしい)を、CompaqとKDDが商用化して2000年3月からやり始めた。ただ、ソフトが重いなどという問題点もあって不評らしく、2001年8月に中止してしまうそうである。
あとは、ViVa!ボランティアネットが、Biglobeの決済の仕組みを使用する形で2000年7月からやり始めた。Biglobeの会員でなくても「るんるんコース」というBiglobeの決済だけ代行するという仕組みに登録すればできる。
また、日本自然保護協会などいくつかのボランティア団体が、2001年1月から投げ銭の実験を開始した。Biglobeは決済の手数料を10パーセント取っている。通常のクレジットカード決済がだいたい7パーセントで、事務局の経費を考えると10パーセントは取らざるを得ないが、「10パーセントも取るのか」と思う人も多いのは事実である。
他にはWispという三菱商事系のものがあり、これはプロバイダー決済とクレジットカード決済代行を混ぜたもので2001年2月より開始された。簡単に言うと、アクセスしたプロバイダーと契約している人はプロバイダーが決済し、契約できていないところに関してはクレジットカード決済にするといった形である。
その他にもいくつか決済の仕組みはある。BitCashというプリペイドカード方式は、安全性に関しては非常によくできているが、購入する手間と暗証番号をたくさん入れないといけないことなどが面倒かも知れない。
携帯からお金を払うという方法もあるが、公認されるかどうかが問題である。
小額決済の急展開ということで、E-BANKやソニー銀行などのオンライン上の銀行が出てきた。E-BANKは、2001年夏からメールでお金をつけて送れる仕組みをやる。
それから、アマゾンがHONOR SYSTEMを開始した。これは全ての決済手段に共通の問題点であった、一回目の決済のわずらわしさをクリアした非常に見事な形である。
以上のように、新しいことがどんどん出てきている反面、事業者の撤退も相次いでいる。ミリセントの撤退の他にも、インターネットクレジット決済を先行的にやっていたアコシスというところが2002年3月に中止する。
投げ銭は賛同のメールも多いが、「できたら導入したい」という話がもっとも多い。でも、できていないから活動しているわけである。したがって、投げ銭のシステムをどう作っていくかというのが問題である。
投げ銭の困難と可能性という点を考えると、大げさに言うと近代史はパトロンシップを失っていくような歴史であった。例えば、お祭りに行っても見世物系はどんどん壊滅していて、残っているのは食べ物系である。お金を払って見る芸というのがどんどんなくなっている。
テレビは、視聴者にとって非常に楽しい無料のコンテンツである。もしかしたらインターネットはテレビなのだろうか。
明治以降の近代を逆回しにして方向転換をし、昔でいうパトロンシップを作り直すこと。すぐにはできないだろうがあきらめないことと、何か起きたときに動けるようにしておこうというのが私の考えである。
私がやるべきことは、新しいインターネット決済銀行との連携と、投げ銭と公共性を考えて議論を進めておくこと、理論武装をすることである。それから、もう少し大きな額から始めるということ。1万円や5千円のコンテンツなどのほうが少しボリュームがあって決済しやすいと思う。
道路交通法の改正で大道芸人も芸を提供しにくくなった。大道芸人の人たちと一緒に芸をしてお互いのためのデモンストレーションをやるとか、インターネットで決済ができるようなお祭りをやるとか、芸能大会とか、そういうことを楽しみながらやって状況を打開していくことができれば面白いと思う。
~フリーディスカッションより~
○投げ銭の問題点は隣の人が見えないということ。誰かがお金を払った時に、その人がいくら出したか比較して払いたいのが人情だと思うので、それをバーチャルに表現することができるかどうかがポイントだと思う。たとえば、即時的なプログラムを作って反映させるとか、動的ブラウザーみたいなものを作る。
○評価の押し付けではないが、500円払った人が10人で100円の人が2人、とかいうように他の人の動向が見えたらいいかもしれない。
○お金を円やドルで回すのか、あるいは新たな第三の貨幣にするのかというと、やはり円ドルの方が最初は回しやすいと思う。(投げ銭のような電子決済と地域通貨の合体の可能性はまだ低いかも?)
○南蛮貿易の時に投資することを「投げ銀」と言った。ちゃんと行って帰ってくればすごく儲かるが、沈没してしまう可能性も強い。投げ銀はまさに“投げる資”だった(パトロンシップ的要素が強い)わけで、「投げ銭」とは少し意味が違う(?)。
○投げ銭は、決済の仕組みが面白いからではなく、ある意味で将来に残したいという気持ちでやるものだと思う。明日なくなるようなホームページに投げ銭はしないだろう。
○(投げ銭の仕組みは)フリーオープンソフト系のソフトハウスをサポートする人がいないので無くなってしまうけれども、オープンソースであれば存続するのではないかという話に通じているかも。
○銀行口座などを一切公開していないページに対して、投げ銭をしたいと思った人が、「私はあなたに投げ銭をしたいから口座を教えてくれ」というくらいのアクションをおこして欲しい。(自分で作って待っているのはちょっと気が引ける部分がある)
○銀行の送料が投げ銭の額よりも高かったりするとつらいので、銀行と提携してインターネット媒体を使って払ったり、口座に振り込まれたりというのがいい。
○投げ銭は決済なのか投資なのか。パトロンシップは、投資というよりは関係づくりであって、払ったから終わりというのではなくその後もずっと続いていくものだし、そのためのコストとしてお金を出す。しかし、コンテンツをいただいたことに対して支払うというのは、その場限りの一過性のものである。つまり、ずっと見守っていって本当に成果を求める投資と、すれ違いざまでポッと投げて「頑張れよ」みたいな投資があって、種類が違うからどちらかには決められないと思う。
○(投げ銭は)払う方ももらう方も気軽な感じでないとだめだろう。(開設するのにすごい手間をかけてやると、「さぁどうぞ」という感じがして引いてしまうかも)
司会 皆さん、お話はつきませんので、そろそろこの辺で中締めとします。お時間のある方は、この後の懇親会にご参加ください。松本さん、非常にお忙しい中、有難うございました。
エコミュニティ研究会 2001年4月5日 SCCJ一般HP用
■環境と調和した持続可能なコミュニティは創れるか――研究会要旨
地球環境の破壊が刻一刻と進むなかで、アメリカから飛び出した「京都議定書投げ捨て発言」。国際社会は対応に苦慮し、人びとは悲観的になりがちだ。一方、国際的なレベルではなくミクロな単位で環境を考えようと、みずからの手で自然共生型コミュニティ形成をめざす動きもある。今回の研究会では、環境という切り口でコミュニティのあり方を考えてみた。質疑応答では「既存の自治会や税制との整合性は?」「共有財産の管理はどうするのか?」「非現実的な桃源郷ではないのか?」…など鋭い意見も飛び交い、刺激的な討論となった。
〈スピーチ1――内藤〉
日本では1980年代半ばまで、循環型社会がそれなりに機能していた。たとえば都市から排出される堆肥や残飯は、近郊に運ばれ、畜産に使われた。そうした循環システムは、85年の為替レート変換で一気に崩壊する。手間ひまかけた循環システムよりも、安価な輸入配合飼料が席巻するようになった。このような経済効率優先の価値観は、いまの日本社会においても支配的だ。
このままの生産と消費のスタイルを続けたら、地球生態系は破局的な事態に陥る――という予測を前提にして、問題解決の方向を探りたい。
近年、「ハーマン・デイリーの3原則」「ナチュラル・ステップの4原則」「デビッド・コーテンのポスト・コーポレート・ワールドの原則」など、自然環境とエネルギーの関係や市場経済のあり方をめぐって、さまざまな論議が展開されているが、私は環境問題は科学技術だけでは解決できないと考えている。おそらく、石油に依存した文明のあり方そのものからの脱却が必要だろう。最近、盛んに提起されている「エコビレッジ」「エコシティ」などは、いずれも「農業社会」をイメージしており、文字どおり脱石油文明社会のあり方として注目に値する。また、環境税や労働時間短縮など、環境と経済にかかわるさまざまな数値化の研究も進めなければならない。数量モデルが示されれば、具体的な政策ツールの研究も進むだろう。いずれにせよ、人間が地球生態系の一員として生きようとするのなら、生態系の原理をよく研究し、自然の生態系に則って新しい社会や技術をつくるしかない。
また、「人間の幸せとは何か」といった価値観の再構築にも取り組む必要があるだろう。われわれ人間は利便性と効率優先の規範で動きがちだから、経済と自然環境と人間性がともに豊かな社会とはどんなものなのか、そのイメージを示す必要がある。これはコミュニティのあり方ともかかわる問題だ。豊かなコミュニティのあり方を示した「アワニーのコミュニティ原則」は、カリフォルニアのビレッジホームズなどにも採り入れられ、宝塚市で進行中の団地開発もこれにきわめて近い。今後の地域づくりの参考になるだろう。
はっきりしているのは、時間効率を優先していては共生のための技術も価値観も生まれない、ということだ。私は、循環共生型社会の建設に関心のある人とともに活動する場として、NPO法人「循環共生社会システム研究所」を設立した。多くの人びとの参加を求めたい。
〈スピーチ2――仁連〉
■人間の存在そのものを危うくする環境破壊
私たちは昨年末、企業・行政・個人・市民団体・研究者などさまざまな人たちの参加を得て、エコビレッジ建設をめざすNPOを、滋賀県を中心に設立した。
20世紀産業社会は、生産者と消費者を分離し、地球の物質循環の仕組み(生態系)に疎い人間を大量に生み出した。その結果、人類は膨大なエネルギーを消費するようになり、地球生態系の不可逆的な崩壊を招きつつある。
さらに、物質循環の仕組みが見えにくい社会=金さえ払えば何でも簡単に手に入る社会は、もうひとつの危機をも生み出した。人間が自分自身の存在を認識できなくなるという事態だ。多発する「17歳」たちの事件は、他の人間を殺したり傷つけたりする行為でしか「自分の存在」を確かめられない人間が生まれていることを示している。人間は他者や周囲の環境との関係のなかでこそ自己の存在を認識できるが、あまりにも物質的に豊かな社会は、逆にその機会を人間から奪ってしまった。
人間が生きるとは、「他の人びとや自然のなかで生きている」ということであり、それを実感できる仕組みをつくることが大切だ――エコビレッジ建設をめざす私たちは、そう考えている。20世紀型産業社会のなかで切り離されてしまった生産者と消費者を、再び結びつけ、人間同士の関係や人と自然環境の関係が認識できる暮らしを再構築することがエコビレッジ建設の目的である。また、持続可能な社会に転換するためには、まずミクロな単位でサスティナブルな社会を実践する必要がある。それが成功すれば、マクロな政策への有力な提言になるだろう。
■コミュニティの核はコモンズ
では、どうやってその仕組み=エコビレッジをつくるか。かつての農村のように、一斉に溝掃除をするといった画一的な行動を求めるコミュニティは、エコビレッジの構成員には受け入れられない。なぜなら、彼らはさまざまな専門性や職業や生活スタイルを持ち、個性を大切にする価値観を持っているからだ。彼らが、共通の目標を持ち、協力して生活を営むためには、みんなが同じ時間に同じことをするのではなく、それぞれの個性や専門性を生かしながら活動に参加できる仕組みが必要だ。その仕組みのひとつがコモンズである。カリフォルニアのビレッジホームズでは、村の中心にみんなで利用できる広場がある。そういうコモンズを持っている。コモンズは画一的である必要はなく、それぞれのコミュニティの特徴・特質によって異なる。要は、コモンズを持つことと、コモンズの運営に構成員の個性や能力を生かせる仕組みが大切だ。
それを保障する方法のひとつにローカルマネーがある。顔が見える関係の人たちが、趣味や専門性を生かしてお互いに助け合う仕組みであり、それによってコミュニティのなかの価値ある存在としての自分を認識できる。実際に助け合う機能と、人間性回復の機能を併せ持った仕組みだ。逆にいえば、画一的な活動参加を求めるコミュニティには、ローカルマネーは不要である。異なる個性を持った人びとがともにコミュニティを形成するためには、この制度の利用も考えられるだろう。
■エコビレッジは自立・自律型社会
エコビレッジの重要課題は、構成員が相互に自立・自律し、自分たちの生活に責任を持てるかどうかだ。たとえば、人びとが従来の「消費者」の立場にとどまるのではなく、工業製品の製造・廃棄の過程について知り、積極的に発言できるようになれば、生産者(企業)との関係も大きく変化する。売れる製品づくりのみに奔走する企業から、コミュニティと一体となり、コミュニティが必要とするものを生産し、消費や廃棄にも責任を持つ企業へと変わる。より多くのモノやエネルギーを売ることではなく、サービスを通じて人びとに満足を与えることが企業の役割になる。
このような自立・自律型の生活が可能な最小単位は、個人ではなく、コミュニティだ。なぜなら人間の生活はオールラウンドなものであり、生活は個人では完結しない。自立・自律型の暮らしを可能にする最もミクロな単位=コミュニティを生み出すことにこそ、環境問題を解決し、行き詰まった人間社会や経済を転換するカギがある。
以上のような立場から、私たちはエコビレッジをつくりたいと考えている。一定の土地さえ提供されれば、志を同じくする人たちが全国から集まるだろう。プロモートに関するアイデアなど、幅広く意見を募りたい。
■質疑応答から
【女性】コモンズと既存の町内会・自治会との違いは? 税制との関係は?
【内藤】財産を共有した場合、税制との関係は、解釈が微妙だ。構成員同士が所有権を主張して、トラブルになるおそれもある。それを防ぐ仕組みが必要だ。
【仁連】コモンズを近代的な枠組みに合った仕組みにすべきだろう。最も望ましいのは法人組織をつくること。「○○村株式会社」でもいい。オーストラリアには協同組合形式で運営しているエコビレッジがある。村で研修事業などを行い、組合員を講師などに雇って、報酬を払っている。
【男性】エコビレッジは「仲良しクラブ」のようなイメージがする。仲良し同士で家を建て、村をつくるのは非現実的だし、多くの人が参加できる条件にはない。既存の自治会が取り組んでいる活動や枠組みと組み合わせるといった方向が必要ではないか。
【女性】いまの企業は利潤の追求を生産活動の動機にしている。サラリーマンがエコビレッジに参加する場合、企業の論理とコミュニティの論理をどう整合させていくのか。
【男性】かつて、日本建築は解体・組み立てが容易なユニットシステムで、コミュニティも循環共生型だった。これらの文化的資産の持つ価値を再発見・再認識し、新しい価値観のなかに組み込むことが重要ではないか。その作業を抜きにエコビレッジを提唱しても、桃源郷を夢見ているようにしか映らない。
【内藤】現況の日本のような社会が安定的に続くという前提に立てば、エコビレッジをつくる必要はない。しかし、日本社会は今後、激変が予想される。そのときの受け皿としてエコビレッジは存在しうると思うし、現に指向する動きもある。文化的資産の蓄積も活かす必要がある。その場合、かつての建築様式やコミュニティのエコロジカルな特性を再生するには何が必要なのか、それをよく整理することが重要だ。
【男性】コミュニティと仲良しクラブは違うし、コミュニティは動機がなければ存続しない。動機(そのコミュニティで何を創造しようとするのか)を共有することが重要な点だろうと思う。動機は変わることもあるから、コミュニティへの「参加」「離脱」は自由に認められてしかるべきだ。したがってコモンズも、動機によってコントロール(あるいはマネージメント)されるのではないか。
【仁連】仮に個人の事情で離脱しても、村そのものの価値は上がるような仕組みをつくらねば。近代的な枠組み、たとえば株式会社の形態はどうか。構成員は株価を買い、村を出るときに株価が上がっていれば、それを受け取れる。共同経営のようなドライな仕組みにしないと、続かないだろう。
【男性】エコビレッジの発展形態は? 一つの村をどんどん大きくするのか、あるいは小規模の村を数多くつくるのか。後者なら、効率という観点からも最低限の交易が避けられない。
【仁連】さまざまな村が無数にできることになるだろう。地域による特性の違いもあるし、村だけで完結できないから、相互にカバーしあうための交易は当然生まれる。その場合、ポイントはエコロジーだと思う。たとえば「重厚長大」なものはコミュニティ内での調達を基本に、かさの低いものや情報などはグローバルに交易するというように、ローカルやナショナルも含めて対応していくことになるだろう。いずれにしろ「人と人とのアライアンス」の成立が交易の前提条件だ。
【内藤】環境問題に関する行動規範は、世界規模ではなくコミュニティレベルで考えるべきだ。エコビレッジのような自立型コミュニティが無数に増えれば、最終的には日本全体が変わる。循環共生型社会でも最小限度の交易はあり得ると考えられるので、コミュニティは必ずしも自己完結する必要はない。この点は経済の専門家の意見も求めたい。
【男性】自然や人間同士の関係を重視し、精神的な充足を求める人たちが増えてきたし、ネット上でバーチャルなコミュニティをつくる動きもある。消費者のなかで価値観の転換が起き始めているのではないか。
【女性】商品選択の基準として社会的満足(例:環境負荷のより少ない商品)を重視する消費者が、少しずつだが増えつつあり、敏感な企業はそれに対応しようとしている。
【内藤】社会はそうやって変わっていくのだろう。私たちのNPOに参加する学生たちのように、あえて困難な道を選ぼうとする若者もあらわれ始めた。いまはそういう時代だ。
2001年3月20日エコミュニティ研究会 概要報告書
コミュニティのファイナンス
今回のテーマは、コミュニティのファイナンス。大阪大学公共政策研究科の跡田教授には、コミュニティの実情とコミュニティ活性化のための「金」に関するを話を、圓城幸男氏(ホテル日航プリンセス京都取締役副社長)には、室町コミュニティ事情を語ってもらい、コミュニティのファイナンスの現状を参加者と話し合った。
■自治会・コミュニティ・お金 ・・・跡田
自治会は現在もあるが、ただほとんど形をなさないぐらいまで崩壊している地域と、ものすごくしっかりとしたものが残っている地域とにはっきり分かれる。
名古屋には形だけの町内会、自治会があり、今や自治会はほとんど残っていない。高山では春と秋にお祭りが行なわれ、自治会なり町内会の人が、お金も人も出したりする。そのような2つのことから考察すると、自治会的なものが残っているところは、いわゆる、今流行りのNPOのようなものはほとんど育っていない。それに対して、大規模な住宅開発をしたような新住民のいるところでは自治会組織がほとんど機能せず、逆に、ボランティア活動とかNPOが発達している。
ところで、自治会というものが、はたして今でいうNPOといえるのかどうか?
戦前では、おそらくボランタリーな組織に近かったのではないだろうか。それが戦時体制の中で崩されていって、最近の状況をみると、市町村の意思伝達機関となっている。しかも市町村からそこにお金が流れ、それで維持させているところも多々ある。農村の一部の地域を除いては、現在の自治会を、ボランタリー組織と位置付けるのは難しい気がする。
また、都市部などでは、自治会的なものが昭和30年代から40年代に完全に崩壊し、今新たな動きとして、コミュニティを再生しようという動きが起こってきている。単位としては1万人規模で、小学校区というような形のものが、1つの一番小さな単位でのコミュニティと考えているようである。言いかえれば、そのくらいの規模であれば、お金がちょうどうまく動く単位になっているということである。
また、コミュニティ・ビジネスという話もでてきている。ニーズに応じて自分たちで事業化し、自分たちの地域の人に還元していくもので、そういう単位としても、コミュニティというのが1万人規模が適切と考えられている。
コミュニティ再生の問題として、お金の問題がある。ボランタリーにお金を集めている限りは、なかなか集まってこないのではないか。例えば、コミュニティの意思を集約するようなNPOをひとつ立ち上げ、政府ないしは自治体からお金、補助金を自分たちで受け取ることが必要になってくるだろう。そして、自分たちでビジネスを展開して稼ぐという形で、コミュニティの人たちにサービスを還元していく形も必要ではないだろうか。また、収入源として、寄付も考えられる。寄付は、今の日本の社会ではそれほど期待ができないが、自分たちの町のためになるということにつながっているように見えると、寄付も可能であろう。日本人はちゃんと税金を払っているし、そのような意味でも自分の意思が反映できる、そして自分のやって欲しいサービスを提供してくれるところに対価を支払う、という形態がかなりの規模で拡がっていくのではないかと思う。また、そのことにより、住民の意識を変え、コミュニティーを維持し、コミュニティー活動をする人たちを育てていくのではないだろうか。
■着物業界に未来はあるか 圓城
学校を卒業し、呉服商社に入社、営業担当となり、経費のかけかたや販売方法に、「なんか原始的な商売だなあ」と感じていた。着物に対する偏見はその頃からあったのかもしれない。
1980年、会社もいろいろ考えた末、海外事業を展開することとなり、サンフランシスコに現地法人を作るということで、私はアメリカに住むことになった。アメリカに住み、「非常にこの国はすごいな」と思ったことがたくさんある。アパートを借りるにしても、電話をつなぐにしても、日本とは文化が全く異なっていた。また、サンフランシスコの事務所を起点に、いろいろなところへセールスに行くのだが、ここでも日本とアメリカのビジネスの違いを感じた。どんな大手の企業のバイヤーでも絶対会ってくれる。疑問に思って尋ねると、「バイヤーというのは、新しい商品を見つけるのが仕事で、もし隣の会社でその商品がものすごく売れたら、私はあなたに会わなかったことを理由に退社させられる」と言われ、ビジネスの認識の違いを思い知らされた。
ただ、そこで、着物という商品を見せた時に、「ワンダフル!ビューティフル!」と褒めてくれるが、値段を言うと全く相手にされなかった。そこで、路線変更をし、古着に焦点を絞ったところ、着物という感覚より、むしろデザインとして興味をもたれ、結構売れたのである。
1980年には着物以外の事業と並行し、毛皮やレザーを始めた。1988年には、香港にレザーの縫製工場を作ることになった。たまたまわが社から発注していた工場経営者が、中国への密輸で逮捕されたことがきっかけで、ビジネスがあるのにお金が動かない状況を変えるべく、法人を設立して作ることとなったのである。
そして1990年にはホテル事業の計画が持ち上がり、94年に開業。ところが時間がなく、現地に任せっきりになり、これでは再投資をかけるのにリスキーだということで、香港の中国返還と同時に、やめることになった。
私は呉服屋と言いながら、着物中心ではなく、それ以外のことを中心にやってきたのである。とはいえ、着物会社の中でやっているので、営業的には展示会や販売会でいろいろな所へ結構行き、それなりに着物には触れてきたのではあるが、その中で「着物はどうなのか」と考えるようになったというのは、やはり、アメリカへ行ったことがひとつのきっかけとなったのではと考えている。
日本ではマーケットが小さくなっていて、海外のいろいろな業種と比較した時に、何かおかしいなと常に疑問に思っていた。そして、やはり世界に通用しない商品だったということが非常に大きなショックだった。それに、着物そのものの位置付けが、衣類か、民族衣装か、美術品か、あいまいな商品だと今でも思っている。それを考えると、着物の将来性に失望する。また、一人で着られないというのが、最大の欠陥ではないかと思う。また、着物は買う時代から借りる時代になったのではないかとも思う。
昔、着物がやっていけたのは、需要があったことと、加工が分業され、家業として着物をやっていたところが非常に多かったからだと思う。それだけいろいろな人の手を経ていくので、厳しい不況があっても、うまいこと皆でリスクを分散しあって乗り越えてきたというのが着物業界だったのである。それが今や家業から企業になってしまった。
小売店の販売の方法に問題があって、お客とのお付き合いが古いので、“ある時払いの催促なし”のような売り方をし、結局、経営を圧迫してきたのである。
本題の『室町に未来はあるか』だが、家業として一度商売の原点に立ち返ってやっていけば、着物が世の中から消えてなくなるようなことはないのだから、未来がなくもないが、今の規模でやっていくと未来はもうないのではないかと感じる。当然これだけ生活様式が変わっているのだから、日常に着るものとして、生き残るのは不可能である。ただ、生活にゆとりがあって、俗世間の空気と離れたところでちょっと着物を着るというのは、それはそれなりに趣があっていいかなと思う。しかし、着物というのは、どんどん若い人たちの心から離れていっているというふうに思われるのである。
■坂口
アジアへ行けば、韓国のチョゴリ、タイ、ベトナムのアオザイという民族衣装等を身にまとった人たちが町を歩いていて、アジア人の心は民族衣装にあると感じる。気候もあるが、日本、特に京都はやはり着物の似合う町ではと思うのである。
■日本に未来はあるのか・・・跡田
着物業界に未来はあるかという前に、日本に未来はあるのかということだと考えている。あらゆる産業がいい時もあれば悪い時もあろう。しかし、特別な技術のあるもの、美術品や伝統工芸品などは残せる。おそらく着物は伝統工芸品に入っているし、その中で、マーケットの中に活かしていかなければならない気がする。
■ 質疑応答
(参加者)NPOは、産業として成り立たせないものを成り立たせる手段というようにおっしゃったが、どういうことなのか。
(跡田)誰かが儲かったお金を、寄付という形でもらう。そのお金で、採算をプラスマイナスゼロくらいになるような活動をする。もうひとつは、更に自分のところの他部門で儲ける。そして成り立たないことを成り立たせるのである。トータルで考えれば、プラスマイナスゼロとしてできるようになって可能性がでてくる。
(北波)自治会の会長をやっているが行政からの補助は得ていないが…。
(跡田)はい、出ているところと出ていないところはある。
(北波)活動に対して市から補助が出るが、個人に対する補助というのは全くなく、運動会、秋祭り、敬老会も自発的にその組織内にあり、自発性ある自治会活動となっている。
(木)2つ質問したい。1つはアメリカのように市民税を安くすることによる新しい市場について、2つめは、社会経済メカニズムが変わってきていることについて少し説明してほしい。
(跡田)税金を減らすことは、政府のサービスを減らすことだから、それによって困る人が出てくる。そこをうまくいかせるために、NPOがますますこれから重要視されるだろう。2つめの質問だが、インターネットという形で、不特定多数の人が情報を見るようになるとマーケットは拡がるし、生産者と消費者を直接結び付けてくれる。ある程度のディマンドを発掘できる可能性もでてくるであろう。着物業界でも試してみる段階なのではないだろうか。
(北波)着物は、着方、価格、売り方、生活環境をうまくマッチングさせていくと、日本の歴史の息吹が残った衣装として、状況が整備されれば、捨てたものではないのではなかろうか。
はじめに、國領先生から最近話題の、Pear to Pear と集中処理につきましてプレゼンテーションをしていただきました。集中処理と分散処理ということでは、個々のエネルギーのあるときは、自律分散型がもてはやされますが、パワーダウンしてくると、ホスト集中型のほうが楽と、このあいだをいったりきたりしているのが現状ということです。
集中処理 分散処理
-----------------------------------------------------------------------------
昔 ホスト パソコン
今 データセンター、ASP Napster, Gnutella, Groove
また、Gnutella や、Groove(Pear to Pearファイル交換の仕組み、音楽データの交換に使われるケースが多い)というソフトウェアの出現で、特に音楽業界からの反発がマスコミをにぎわしていますが、國領先生からは、著作権の問題よりは、税金の徴収がどうなるかということのほうが大きな問題ではないかという興味深いお話がありました。
情報を配信、流通させることはインターネットにより比較的簡単にできるようになってきましたが、その情報そのものを作りだすことはコピーにくらべてはるかに大変でコストがかかることです。これについてどのようなインセンティブをつけて、経済的な価値をつけるか、新しいビジネスモデルを構築する必要があります。そうしないとサスティナブル(持続可能)になりえないからです。この件で、「佐々木、北山モデル」と「福永モデル」が提示されました。
「佐々木、北山モデル」 オープンソースのLINUXをベースにどのようにビジネスになっていったかを検証
「福永モデル」 情報の受信者からお金を徴収(会費制等)するか、情報の発信者からお金を徴収(広告等)するかというわかりやすい分類で説明
また、参加者の一人NTTの小笠原さんからは、最近やたらと口にされる「コミュニティー」という言葉についてちゃんとした説明をしていただきました。
(議事録がちゃんとしてなくてすんません)
いわく、
「コミュニティ」とは、
1)共通の目的、関心事があること。価値を共有できる言語があること。
2)帰属意識があること。
3)オンライン、オフライン問わず、コミュニケーションがあること。
とのことです。
このような問題提起をもとに参加者同士、活発な意見交換がかわされました。
いくつかのご意見をご紹介します。
1) 「コミュニティ」とは一言でいうと「価値の共有と信頼の構築」といえるのではないか。21世紀に向かいますます重要になってくるだろう。
2) 現在のシリコンバレーの状況は、20世紀初頭のデトロイトの状況に似ている。
当時、数百社をこえるありとあらゆる自動車会社が起業した。
未知の産業である自動車産業で、現在では結局3社に集約されてしまったが、だからといってサスティナブルでなかったわけではなく、巨大産業となった。
3) 「コミュニティ」の形成の過程について、「踊る大走査線」のサイトや(本店サイト、所轄サイト)、お互いの言語がわからなくても、意思(石)疎通ができる「ネット囲碁」を例にして楽しい説明がありました。
意見交換で筆者が興味を引いた話題としては、國領先生から発言されました、「ROMの研究」(ROMとはネットワーク上の電子掲示板などで自分は発言はしないけれどもそのことのなりゆきを見ている人のこと)です。ROMの人が、その話題を口コミでリアルな世界で活用し、どれくらい影響力があるのかという視点です。実証データがなかなか見つからないそうですが、どなたかご存知の方があれば教えてください。
意見交換が佳境に達し、のどが渇いた頃、SCCJ事務局長の浅野さんから突然、会場を居酒屋に移しましょうという提言があり、京都の夜はふけていくのでした。
この続きは、12月1日の研究会で。それでは京都でお会いしましょう。
参考URL : 國領研究室のホームページ
http://www.kbs.keio.ac.jp/kokuryolab/
以上
文責 稲垣 匠